流鏑馬の語源は、馬を馳せながら矢を放つ(やばせむま)がなまって(やぶさめ)となったと言われています。また「流鏑馬」と書くのは(かぶら)のついた矢を馬上より射る意味を文字にしたもので、古い文献では、藤原宗忠の「中右記」等に見られ、日本書紀にも「天武記」の中に「馬的射」(むまゆみいさせ)と書かれており、これが騎射(うまゆみ)の始まりとされています。
当時、平安時代に流鏑馬は朝廷の警護に当たっていた者たちが射手となり、朝廷の行事の中で公家の催しとしての騎射が盛んに行われていました。
武家としての流鏑馬のはじめは平治物語に見える平清盛の伏見稲荷神社の流鏑馬であるといわれていますが、信州諏訪社ではすでに武家主催で行われていたということです。源氏の道統としての流鏑馬は、清和源氏の始祖である六孫王経基が清和天皇の教えを受け、これが源氏の騎射として伝承されたもので、宮中の大儀としての儀式には必ず行われました。鎌倉に幕府が開かれてから、武家の儀式として盛んに行われたことが、吾妻鏡に多く見られます。一時衰退したこの流鏑馬も徳川時代に入り徳川吉宗の命により小笠原20代貞政は奥勤めの武士たちに新儀式としての流鏑馬を制定して今に伝わっています。
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